目と脳の錯覚=環境と教育? 瞬時に読めてしまう文章認識のなぜ

目と脳の錯覚=環境と教育? 瞬時に読めてしまう文章認識のなぜ

こちにんは みさなん おんげき ですか?  わしたは げんき です。

この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか

にんんげは たごんを にしんき する ときに その さしいょ と さいご の もさじえ

あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう

に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。

どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?

 上記の文章は、2005年頃にネットで流行った、あべこべだけど読めてしまう文章であり、ご存知の方も多いだろう。読めてしまう以上、正解の文章を書く必要がないのでそちらは省き、本題に入る。

 流行った当時、誰でも読めてしまうこの文章に、ネットでは「人間スゲー」と騒がれていた。では、具体的に人間のどの部分が凄いのか。文章を見る”目”か、または解読する”脳”か。はたまた、それ以外なのか。

 日本で流行ったのは近年だが、研究の歴史は実は古く、1970年代にまで遡る。1976年、イギリスの南岸に位置するハンプシャー州。学者のグラハム・ロウリンソン氏が「単語認識に置ける文字の位置の重要性」という学術論文を書き、その中でこう述べている。

 「単語の語中の文字をランダムにしたものは、文章を理解できる読者の読解能力にはほとんど、あるいはまったく影響を及ぼさないことを示した。実際のところ、本当に速い読み手は、混乱した文章のA4サイズ1ページの文章の中で、たった4つか5つの間違いにしか気づかなかった」

 ”読む”とは、様々な性質や複雑さ理解するために、多くの知識を動員する複雑な活動であり、認知過程だけでなく、知覚過程も含む活動である。すなわち”読む”とは、言葉を認知し、識別することとなる。これは同時に、”書く”のも複雑であることを証明していると言えよう。

 グラハム・ロウリンソン氏以外にも、多くの言語学者が、言葉の特定メカニズムの発展を説明しようとしてきた。その結果、現在、主要モデルは3種類の読み方から構成されている。

1:表語文字的読み方
単語を読むために、様々な手がかりによってもたらされるきっかけを用いる。文字の順序や音韻論的な要素は考慮さず、視覚的な手がかりのみを頼る。よく知っている単語(または暗記しているもの)の瞬間的な認識があり、視覚的な手がかりを伝える基礎に基づくふるいは、最初の完全な用語表を構成することとなる。視覚的な手がかりは、単に文字の長さ、あるいはシルエット(輪郭)、場合によっては一文字だけということもありえる。

2:アルファベット的読み方
書いたものについて文字と音の対応がどのようになっているのかを学ぶ。例えば、「k」という音が “c”(cot)、”k”(kiss)、”ch”(chord)と書かれるというように、音韻論的な調整をつけるこの段階では符号訓練が行なわれ、音韻論的な知識を増やして、それを新しい単語に当てはめる。暗号解読のプロセスを経て単語を読む。

3:正字法的読み方
単語は正字法的(※)な単位で解析される。ここでは音韻論的な変換は行なわれない。言葉は、記憶された正字法的辞書を参照し、直接読まれて認識される。この段階は、次第にアルファベット的読み方に取って代わる。読み手は、それ以上解読の必要がない。単語を「直接的な方法」で認識するからである。
※正字法とは、単語を構成する文字の連続を意味する。

 人間は読むときに、長年に渡って得た読み書きの経験で培った能力を使っているのである。言い方を変えると、習癖となる。最初のあべこべだけど読めてしまう文章が瞬時に理解できるのも、今までに見たよく知っている短い単語ばかりの文章だから、誤字も瞬間的に補正できるからだ。

 つまり、「人間が凄い」のはもちろんなのだが、それ以上にこれまで多く学ぶことができた「生活環境や教育が凄い」ということとなる。改めて、育ててくれた両親や親族、教師や友人に感謝しなくてはいけない。

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